2013.03.27 Wednesday 10:53
皆の衆、元気であるか?
昨夜から急にまた冷え込み、体調の管理に難しくなっておるが、皆は大丈夫かの?
ここ中部では、まだ桜の開花をしたばかりじゃで、今週末には満開になり、花見に最適ではなかろうかのぅ!!
儂等「岐阜城盛り上げ隊」も、今週末31日(日)は岐阜城へ参陣致す故、岐阜公園の桜を見つつ、金華山に聳え立つ岐阜城へ足を運んでは如何かの?
さて、本日は儂等が戦国期に過ごした、女性の化粧について話を致そうかのぅ。
当時の記憶はもう曖昧故、色々な説があるうちの一つを紹介致すで、これが真実!・・という確証はないが、頭の隅に残して頂くと、また歴史が楽しくなるぞ。
戦国時代の美女メイクは、白粉で肌を美白にし、赤の口紅で際立たせ、髪と眉と鉄漿の黒で締める「赤・黒・白」の色が重要であった。舞妓さんが一番近い感じかのぅ・・・。
若い女性は、額の際を丸く剃り、中年は富士額に整えて、眉は全部剃って、額の上に手書きで書く特徴もあった。
紅は目じりなどにも入れ、頬紅もつけている。
平安期には、東ローマから中国経由で白粉が流入してきており、寝殿造りの暗さで、顔を引き立てるために重宝されていた。そして、徐々に厚塗りになっていったようである。
戦国時代は、家に居るばかりではなくなった為、多少薄くなっていたようだが・・・。
そして、美白に対称したのが、鉄漿である。
当時の女性は、鉄漿をする事によって成人女性の仲間入りであり、11〜13歳になると鉄漿始めという儀式を行い、結納の際には、鉄漿の一色を揃え、既婚者に証になったという。
鉄漿は、室町時代から上流階級の男子も用いり、首実験では、身分ある人の首の場合、お化粧を施すのは当然であった。
このように、歴史を辿ると面白いであろう?
新しき事も大事だが、古き事から学ぶ事も沢山ある。
時代、考え、流行・・・皆も、共に学び、盛り上げていこうぞ!!
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