RECOMMEND

<< November 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
戦国時代の化粧・・・
皆の衆、元気であるか?

昨夜から急にまた冷え込み、体調の管理に難しくなっておるが、皆は大丈夫かの?

ここ中部では、まだ桜の開花をしたばかりじゃで、今週末には満開になり、花見に最適ではなかろうかのぅ!!

儂等「岐阜城盛り上げ隊」も、今週末31日(日)は岐阜城へ参陣致す故、岐阜公園のを見つつ、金華山に聳え立つ岐阜城へ足を運んでは如何かの?

さて、本日は儂等が戦国期に過ごした、女性の化粧について話を致そうかのぅ。
当時の記憶はもう曖昧故、色々な説があるうちの一つを紹介致すで、これが真実!・・という確証はないが、頭の隅に残して頂くと、また歴史が楽しくなるぞ。

戦国時代の美女メイクは、白粉で肌を美白にし、口紅で際立たせ、髪と眉と鉄漿で締める「赤・黒・白」の色が重要であった。舞妓さんが一番近い感じかのぅ・・・。

若い女性は、額の際を丸く剃り、中年は富士額に整えて、眉は全部剃って、額の上に手書きで書く特徴もあった。

紅は目じりなどにも入れ、頬紅もつけている。

平安期には、東ローマから中国経由で白粉が流入してきており、寝殿造りの暗さで、顔を引き立てるために重宝されていた。そして、徐々に厚塗りになっていったようである。

戦国時代は、家に居るばかりではなくなった為、多少薄くなっていたようだが・・・。

そして、美白に対称したのが、鉄漿である。
当時の女性は、鉄漿をする事によって成人女性の仲間入りであり、11〜13歳になると鉄漿始めという儀式を行い、結納の際には、鉄漿の一色を揃え、既婚者に証になったという。

鉄漿は、室町時代から上流階級の男子も用いり、首実験では、身分ある人の首の場合、お化粧を施すのは当然であった。


このように、歴史を辿ると面白いであろう?
新しき事も大事だが、古き事から学ぶ事も沢山ある。
時代、考え、流行・・・皆も、共に学び、盛り上げていこうぞ!!


斎藤道三 | 歴史談話 | comments(2) | trackbacks(0) |
明智光安
皆の衆、黄金週間の中間日。。。雨じゃのぅ
涼しくはなったが、やはり晴れて騒ぎたかったのぅ!

本日は、儂の美濃獲りを支えてくれた 明智光安 を紹介致すとしよう。
儂の正室の小見の方の兄であり、明智光秀の叔父じゃ。
頭脳明晰であり、儂の相談役でもあったのぅ。

●明智光安
?〜1556年(?〜弘治2年)
(兵庫頭・宗宿)
美濃国明智城主。明智光継の三男であり、母は武田信豊の娘。子には光春の他に二男四女。
天文4年(1535年)に兄光綱が亡くなると、その子光秀が幼かった為、光綱の跡を継ぎ、光秀の後見人となる。
天文16年(1547年)、足利義晴に謁見し、従五位下兵庫頭を承る。
天文22年(1553年)、出家をし宗宿の法号す。
斎藤道三が美濃国にて力を蓄えてくると、道三に接し、妹の小見の方を継室に出している。
弘治2年(1556年)、道三と義龍が争うと、外戚関係であった光安は、義龍と対立し、明智城に籠城。しかし、義龍を擁する揖斐光就や長井道利に攻められ、防戦空しく光久らと共に自害した。
子の光春は、宗家嫡男の光秀を託して城を脱出させている。



斎藤道三 | 歴史談話 | comments(0) | trackbacks(0) |
「天下布武」とは・・・
皆の衆、元気であるか?

本日は、良い天気になったのぅ!!
早い者は、明日から黄金週間に入るとか・・・思いっきり羽を伸ばし、楽しむが良いぞ。

さて、儂の義理の息子 織田信長 殿が唱えた「天下布武」・・・皆は意味をきちんと理解しておるかのぅ?
よく聞く解釈は、天下を武力によって統一する事・・・。
これは、間違った解釈である。
「天下布武」とは、暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安じ、衆を和し、財を豊かにするの「七徳の武」を意味し、これらを全て兼ね備えた者が天下を治めるのに相応しいという意味である。
中国の「春秋左氏伝」が基になっているもので、沢彦から「岐阜」の名と共に、信長に与えられた言葉とされています。

儂も、もう少し若ければ・・・共に手を取り合って日ノ本を治めたやも、、、しれぬな。


「岐阜城盛り上げ隊 スタンプラリー」

開催日  4月29日(日)
開催時間 午前10時〜午前14時配布終了。
★小学生以下の御子様先着200名様に限ります。
※雨天や悪天候の場合は中止となります。




★「おもてなし武将隊JAPAN」の公式webサイト
http://www.soueisha1979.com/busho-tai/

「おもてなし武将隊JAPAN」
空 / 羽よ、魂となれ。」

「武士は国のために生きてこそ武士なれ、じゃ!」
織田信長が発した大号令のもと、12人の武士(もののふ)が
『おもてなし武将隊JAPAN』として集結!

参陣した武将は、
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康(名古屋おもてなし武将隊)の三英傑をはじめ
石田三成・井伊直政・島 左近(関ヶ原東西武将隊)
加藤清正(熊本城おもてなし武将隊)
斎藤道三(岐阜城盛り上げ隊)
前田慶次(名古屋おもてなし武将隊)
坂本龍馬(土佐おもてなし勤王党)

の10名に、「シークレット武将」の2名を加えた12名。





斎藤道三 | 歴史談話 | comments(0) | trackbacks(0) |
斎藤長龍
皆の衆、元気であるか?
本日は日ノ本の多くが雨になり、急激に温度が下がって、寒い日じゃのぅ。。。
明日は、また暑くなるという話じゃが・・・誠に体調管理をしっかりせねば、風邪を引きそうじゃな。

本日紹介致す武将は、儂の末子であり、織田信長の嫡男信忠に仕え、本能時の変の折には共に殉じた 斎藤長龍 を紹介致す!
儂は、長龍が大好きである。あまり目立ってはおらぬが、色々と織田家隆盛の為に槍働きもしておる。
「岐阜城盛り上げ隊」にて長龍を蘇らせるのも、時間次第やもしれぬな・・・w

●斎藤長龍
?〜1582年(?〜天正10年)
(新五郎・長竜・利興)
美濃国加治多城主。織田信長の臣。道三の男。
永禄8年(1565年)8月に、佐藤忠能と共に堂洞城、9月に長井道利の関城を攻め落す。
堂洞城攻めで佐藤忠能の子・忠康が死んだ為、忠能の養子となり、永禄10年(1567年)に加治多城主になる。
姉川の戦いや石山合戦、槇島城の戦い、手取川の戦いなどにも従軍。
1577年前後に織田信長の嫡男、信忠付となり、天正6年(1578年)、神保家の援軍として越中国へ総大将として出陣。河田長親率いる上杉軍を撃破する。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変を知った信忠に、一度美濃国へ逃げるよう諭すが、明智軍の包囲検問をを考慮し、二条城へ軍を移動し、明智軍と交戦する。
三度明智軍を退けたが、信忠は自刃。
長龍も城に火をつけ応戦するが、最後は斎藤利三に攻められ、信忠を追って討ち死した。



斎藤道三 | 歴史談話 | comments(0) | trackbacks(0) |
斎藤正義
皆の衆、元気であるか?
本日の紹介致す武将は、儂斎藤道三の猶子であり、行年33歳と言う若さで亡くなった文武共に秀でた武将 斎藤正義 じゃ。

●斎藤正義
?〜1548(?〜天文17)
美濃の斎藤道三猶子の武将で、金山城(可児郡)に拠る。
関白近衛稙家の庶子といい、はじめ比叡山横川専心院の修行僧であったが、姉が斎藤道三の妾でいた縁で食客となり頭角を現した。
1532年(天文元年)16歳で元服をすると、日根野弘就に従い手勢を率いて初陣を飾る。
斎藤道三の東濃の足がかりとして、1537年に鳥峰城を築城。
1539年(天文8年)8月には画工に命じて等身大の甲冑姿の肖像を書かせたが、これは浄音寺に現存している。
同17年2月、配下の久々利頼興の館へ酒宴に招かれて謀殺される。
子は加木屋正次。


「金華山ロープウェイ」リニューアル時に開催した「岐阜城盛り上げ隊 スタンプラリー」じゃが、本年も開催致す事に決まり申したぞ!!
春風が気持ち良い金華山に参られ、岐阜城と武将達に触れ合いながら、黄金週間の初日を楽しんでくだされ。

開催日  4月29日(日)
開催時間 午前10時〜午前14時配布終了。
★昨年同様 小学生以下の御子様先着200名様に限ります。


昨年の安藤守就のスタンプラリー風景じゃ。

斎藤道三斎藤義龍竹中半兵衛安藤守就濃姫の5名が、皆の参陣を待っておるぞ

斎藤道三 | 歴史談話 | comments(0) | trackbacks(0) |
竹腰道鎮・竹腰尚光
皆の衆、本日紹介致す武将は 竹腰道鎮竹腰尚光の両名じゃ。
両人とも中々聞かぬ名だと思うが、美濃斎藤家の礎を気づいた重臣であるぞ。

●竹腰道鎮
?〜1556(?〜弘治2)
(重直・道陳・道塵・摂津守)
竹腰家は、宇多源氏の佐々木信綱を祖先とする名門であり、孫の正信は徳川家康に仕え、美濃国安八郡 今尾藩(認められたのは明治時代) 尾張藩附家老の祖である。
道陳は、土岐・斎藤家の重臣であり、大垣城主。
斎藤道三と義龍が争った弘治2年(1556)の長良川の戦いでは、義龍側として参陣し、討ち死にしている。


●竹腰尚光
生没年不詳。
(摂津守)
成吉氏を称す。
美濃国斎藤氏の重臣であり、柳沢城主。
安藤守就・氏家直元・日根野弘就らと連署した文書が多く、西美濃三人衆に不破光治と竹腰尚光を加え、西美濃五人衆と称する事もある。
尚光の父は、長良川の戦いで討ち死にしており、義龍の代から重臣として活躍する。
龍興の代には、次々と家臣が織田家に寝返る中、最後まで斎藤家に忠誠し、斎藤家が滅亡した後は農村にて余生を過ごしたという。


さて、我が隊の明智光秀なのじゃが・・・皆の前に参陣するのは、もう少し待ってくれのぅ。
皆の待ってる声は、きちんと光秀に届けておるでの!



「金華山ロープウェイ」リニューアル時に開催した「岐阜城盛り上げ隊 スタンプラリー」じゃが、本年も開催致す事に決まり申したぞ!!
春風が気持ち良い金華山に参られ、岐阜城と武将達に触れ合いながら、黄金週間の初日を楽しんでくだされ。

開催日  4月29日(日)
開催時間 午前10時〜午前14時配布終了。
★昨年同様 小学生以下の御子様先着200名様に限ります。

斎藤道三斎藤義龍竹中半兵衛安藤守就濃姫の5名が、皆の参陣を待っておるぞ。



斎藤道三 | 歴史談話 | comments(2) | trackbacks(0) |
日根野弘就
皆の衆、久々に美濃国岐阜に関連する人物を紹介致すとするかのぅ。

今回紹介致す武将は、日根野弘就
この者は、鎧や兜を多く自作し、曲線的な形状は鉄砲に対する実戦向きといわれ重宝されたようじゃ。
徳川家康を初め、真田信繁、立花宗茂なども用いておる。

●日根野弘就
?〜1602(?〜慶長7)
(徳太郎・雄就・五郎左衛門・備中守・空石・「寛政重修諸家譜」には従三位)
豊臣秀吉の家臣。九郎左衛門の子。
はじめ斎藤道三に属す。天文11年(1542)、土岐頼芸を大桑城に襲い、その後斎藤義龍・龍興に仕える。安藤守就・氏家直元・竹腰尚光らとの連署が多い。永禄6年(1563)、織田信長と稲葉山城に戦い、のちに浅井長政に拠った。天正元年(1573)、浅井十郎を殺害し信長に帰した。
その後秀吉に仕える。同12年、弟重之と小牧・長久手の戦に兵1500名を率いて従軍し、徳川家康方の小牧山城に対する二重堀を守備したが、5月1日、戦線整理のために撤退。その後、秀吉の怒りにふれ浪人したが、同18年再び出仕する。
文禄3年(1594)の春頃、尾張三河のうち1万6千石。
高野山に出家し、慶長7年5月28日死去。

補足ではあるが、義龍の命令で、儂の愛息である 孫四郎や喜平次 を殺したのは、この男である。
時代の流れや、背景など色々な諸事はあるが、こやつだけは好きになれん!

でも、「岐阜城盛り上げ隊」では、氏家直元をはじめ、共に岐阜城や岐阜市、岐阜県を盛り上げれる方を募集しておるでのぅ!!

気軽に連絡してみてくれのぅ。
斎藤道三 | 歴史談話 | comments(0) | trackbacks(0) |
長良川の戦い・・・(道三勢)
皆の衆、元気であるか?
春の陽気が近づいておるが、近づくにつれ各々の旅立ちや卒業などが日々起こっておるのぅ・・・。
儂の周りでも、旅立つ者が多々おり、誠に寂しい気持ちでもある・・が、新たに旅立つ者には笑顔で送ってやりたいものじゃ。

さて、本日は
儂 斎藤道三 が最後の戦である、「長良川の戦い」にて儂の味方についてくれた諸将を、紹介致すぞ!

まずは 長良川の戦い の説明を致すとしよう。

●長良川の戦い(Wiki参照)
1556(弘治2年)4月に斎藤道三と嫡男、義龍の間で行われた合戦。

1542年(天文11年)土岐頼芸を追放し替わって美濃の国主となった斎藤道三は、1554年に嫡男義龍に国を譲り隠居する。しかし道三と義龍の不仲は深刻なものとなり、道三は義龍を廃嫡し自身が寵愛する義龍の弟を跡継ぎにすることを考えるようになった。

1555年、そうした動きに気付いた義龍は稲葉山の屋敷に二人の弟(喜平次、孫四郎)を呼び寄せると寵臣の日根野弘就に暗殺させ、骨肉相争う事態となった。道三が国主となるまでの経緯もあって家中の大半は義龍を支持し、義龍軍17500名に対し道三が動員できたのはわずか2700名と義龍の有利であったとされる。

4月18日、初め道三は鶴山へと布陣し、20日に義龍軍が長良川南岸に動いたのに応じ、北岸に移動した。道三は当初優勢に戦いを進めたが兵力差は如何ともしがたく、娘婿の織田信長の援軍も間に合わず道三は戦死した。

斎藤道三の軍勢                             
川島唯重                                            
川村良秀
飯沼知俊
神山義鑑
神山正長
神山正常
道化定重
道化定常
松原義保
竹中氏泰
井上頼久
片桐為春
溝尾茂朝
大塚種長
鷲見基綱
桑原久明
三宅信朝
 

稲葉一門勢
林 通政(斎藤道三の旗頭。森可成、秀貞は一門)  
林 通村(孫に織田信長筆頭家老 林 秀貞)
林 通安
一柳直秀
猪子高就
柴田角内

尾張津島勢
堀田道空(斎藤道三の家老・側近。正徳寺の会見での随従者の一人)
山内盛重
梶川昌宗

簡単ではあるが、長良川の戦い時(戦場付近)に
儂の軍団として活躍した諸将じゃ。



★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

★「おもてなし武将隊JAPAN」の公式webサイト
http://www.soueisha1979.com/busho-tai/


皆の衆、CDシングル 週間ランキングにて、おもてなし武将隊JAPANオリコンウィークリーランキング38位じゃ!!!
誠、誠に有り難うのぅ
これからも、引き続き宜しゅう頼み申す!


斎藤道三 | 歴史談話 | comments(0) | trackbacks(0) |
濃姫(帰蝶)、小見の方、深芳野
皆の衆、元気であるか?
本日の西美濃・尾張地方は晴天に恵まれ、絶好の行楽日和である。
岐阜梅林公園にて行われておる 梅まつり もさぞや盛り上がっておろうのぅ!

そして、本日は 雛まつり でもあるのぅ。
濃(帰蝶)や小見なども、雛まつりを楽しんでおるのかのぅ・・・って、もうそのような歳でもあるまいかw
いや、女子はいつまでたっても娘かもしれぬのぅ・・皆、楽しんで参るのじゃぞ!

さて、本日は雛まつりにちなんで、「盛り上げ隊」豆知識より、濃姫(帰蝶)小見の方深芳野の3名を紹介いたすぞ。

まずは濃姫(帰蝶)からなのじゃが、「盛り上げ隊」には濃姫と帰蝶の両名が存在しておるが、同一人物ではないのですか? と言う質問が良く聞かれるのじゃが、儂の「盛り上げ隊」にて考えておる濃姫と帰蝶は、儂の娘であるのは帰蝶であり、織田信長に嫁いだ娘が濃姫と考えておる。よって、同一人物ではあるが、儂の「盛り上げ隊」内では両名が存在するわけなんじゃな。

●濃姫
1535〜?(天文4〜?)
(帰蝶)
織田信長の室であり、美濃国の斎藤道三利政の女。
母は明智氏の小見の方。
天文17年(1548)、14歳で織田信長に嫁す。
しかし、実子はなくその後の消息は不明であり、謎多き女である。


次は、
儂の正室 小見の方 じゃ。
美濃斎藤家2代目党首 斎藤義龍 の母親と思われがちだが、義龍は側室 深芳野 の男であり、庶子にあたる存在である。
嫡男は次男 孫四郎 であるが、
儂が死ぬ1年程前にて義龍に殺害されてしまっておるのじゃ・・。

●小見の方
1513?〜1551(永正10?〜天文20)
斎藤道三利政室。美濃国恵那郡明智の城主明智駿河守光継の女。光秀の叔母とも伝えられている。
天文2年(1533)頃に道三に嫁し、次男孫四郎および濃姫をもうけたという。
同20年2月に病死。39歳。


最後は、
儂の側室であり、斎藤義龍の母でもある 深芳野 じゃ。

●深芳野
生没年不詳。
美濃斎藤道三利政の側室。
一色右京大夫の女というが不詳。もとは美濃土岐家の頼芸の側室で、大永6年(1526)頃から道三の側室になったという。
一説に、義龍の生は土岐頼芸の落胤説があるが、これは義龍の生母を深芳野と仮定したことによる俗説である。


岐阜梅林公園の「梅まつり」、そして金華山ロープウェイに乗り「岐阜城」に参られよ!


斎藤道三 | 歴史談話 | comments(0) | trackbacks(0) |
岐阜市のブログにて
皆の衆、息災であるか?

本日は夜21時よりUST放送の「10時は終わります!2」に、儂 斎藤道三 出演させて頂くでの!
皆も一緒に参加してくだされよ!!

さて、本日の「岐阜市」殿のブログにて、「おもてなし武将隊JAPAN」の告知をしてくださっておるのじゃが、ほんに楽しく作られておられる。
是非、皆も一度拝見してくだされ。
http://plaza.rakuten.co.jp/machi21gifushi/

さて、26日日曜日「岐阜城盛り上げ隊」は、「岐阜城」に参陣する予定じゃ!
今宵から明日にかけて、少し天気が悪ぅ〜なるようじゃが、日曜日は回復するであろう!!


「皆の岐阜城への参陣、待っておるぞ!」

※雨や雪の場合は休陣となり申す・・・。
斎藤道三 | 歴史談話 | comments(0) | trackbacks(0) |
/ 1/2PAGES / >>